
地下鉄サリン事件
地下鉄サリン事件(ちかてつサリンじけん)とは、1995年(平成7年)3月20日に、東京都で発生した同時多発テロ事件である。
一部の国では「Tokyo Attack」と呼ばれている。警察庁による正式名称は地下鉄駅構内毒物使用多数殺人事件。
宗教団体のオウム真理教によって、帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ)で営業運転中の地下鉄車両内で神経ガスのサリンが散布され、乗客及び乗務員、係員、さらには被害者の救助にあたった人々にも死者を含む多数の被害者が出た。平時の大都市において無差別に化学兵器が使用されるという世界にも類例のないテロリズムであり、世界的に大きな衝撃を与えた。
毎日新聞では、坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件と並んで『オウム3大事件』と表現されている。
概説
事件当日
1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の帝都高速度交通営団(現在の東京メトロ、以下営団地下鉄)、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡、負傷者数は約6,300人とされる。
営団地下鉄では、事件発生に伴い日比谷線の運転が不可能となり、霞ケ関駅を通る丸ノ内線・千代田線については同駅を臨時に通過扱いとして運行することにしたが、一時的に部分運休した。運転再開後はほぼ所定どおりのダイヤで運行したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。
1995年(平成7年)3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。これは村井秀夫と井上嘉浩が乗客数及び官公庁の通勤のピークが8時10分頃であると考えたためである。各実行犯は、500〜600gの溶液(内サリンは35%程度)の袋詰めを2つ、林泰男だけは3つ運び、犯人は各々に命じられた列車に乗り込み、乗降口付近で先端を尖らせた傘を使い、袋を数回突いて下車。それぞれの犯人が共犯者の用意した自動車で逃走した。これらの路線ではラッシュ時には非常に混雑するため、車両間を移動することは大変困難であった。
この事件は教祖の麻原彰晃が首謀、村井が総括指揮を担当、そして井上が現場調整役を務めた。サリンは土谷正実・遠藤誠一・中川智正が生成したものが使われた。
オウムの関与判明後
事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教団教祖の麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕された。地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。
リムジン謀議には麻原・村井・遠藤・井上・青山吉伸・石川公一の6人がいた。謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。
東京地方裁判所は、首謀者の麻原彰晃を始め、林郁夫を除く散布実行犯全員と、送迎役のうち新実智光[注 3]に死刑を言い渡し、東京高等裁判所の控訴審ではさらに第一審では死刑求刑に対し無期懲役だった井上嘉浩に死刑判決が言い渡された。実行役3人及び新実・井上両名の計5人に言い渡された死刑判決はいずれも最高裁判所で、2010年1月19日に新実の上告が棄却されたことをもって確定した。
2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして特別指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた容疑者は全員逮捕された。高橋が逮捕されるまでに、前述した新実を除く送迎役は全員求刑通り無期懲役判決が確定しており、高橋も他の送迎役同様一・二審で無期懲役判決(求刑同)を受け、最高裁に上告中であったが、上告が退けられた。
2018年(平成30年)7月に、事件に関与した死刑囚たちの死刑が執行された。
当事件を受けて、サリン等による人身被害の防止に関する法律が制定される運びとなった。
計画
迫る強制捜査と生物兵器テロ未遂
麻原彰晃こと松本智津夫は、自ら設立した宗教団体であるオウム真理教内において、専門知識がありまた自らに対して従順な人材を複数配下に置き、日本を転覆させようと企て、様々な兵器を開発する中でサリンにも着目し土谷正実、中川智正らがこれを製造。池田大作サリン襲撃未遂事件、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件といった事件を引き起こし、松本サリン事件では遂に死者が発生した。
またその頃、サリン70t製造を目指してサリンプラント計画が進行していたが、1994年7月などに異臭騒ぎを起こし周辺の土壌を汚染していたため、1995年1月1日、読売新聞朝刊が「上九一色村でのサリン残留物検出」をスクープ。読売のスクープを受けオウムはサリンを処分し第7サティアンに建設中だったサリンプラントは神殿に偽装した。しかし中川智正がサリンの中間物質メチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)を密かに保管しており(諸説あり、後述)、これが地下鉄サリン事件に使用されることとなったとされる。
麻原は同1月17日の阪神・淡路大震災により警察の強制捜査は一旦遠のいたと考えていたが、同年2月末の公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でのオウムの関与が疑われ、麻原ら教団幹部は強制捜査が切迫していると危機感を抱いた。オウム内部では、1994年11月頃から東京の現職警官信者からの情報として強制捜査の噂が流れていた。警視庁公安部内のオウム信者の情報では、薬品の購入ルートが調査されていることが麻原に報告されていた。
このため事件5日前の3月15日に営団地下鉄霞ケ関駅に井上嘉浩、山形明、高橋克也が「六法煙書」と呼ばれたボツリヌストキシン散布用のアタッシェケースを3つ放置したが、水蒸気が出るだけで失敗した[11][7]。井上らは科学技術省がつくったものなのでどうせ失敗すると思っていたという。遠藤誠一は毒が完成していないのにやらされたとしている。なお、ケースは警視庁・警察庁の職員たちが利用する「A2」出入口構内に置かれていた。
リムジン謀議
事件2日前の3月18日午前0時、都内のオウム経営飲食店で正悟師昇格祝賀会が行われる。祝賀会中に麻原は幹部に対し、「エックス・デーが来るみたいだぞ。」「なあ、アパーヤージャハ(青山吉伸)、さっきマスコミの動きが波野村の強制捜査のときと一緒だって言ったよな。」と強制捜査を話題に出していた。祝賀会終了後の18日未明、上九一色村に帰る麻原ら幹部(麻原、村井秀夫・遠藤誠一・井上嘉浩・青山吉伸・石川公一)を乗せたリムジンにおいて、強制捜査への対応が協議された(リムジン謀議。車中謀議とも)。
麻原は「今年の1月に関西大震災があったから、強制捜査がなかった。今回もアタッシェが成功していたら強制捜査はなかったかな。」と発言。井上がボツリヌス菌ではなくサリンならばよかったのではと回答すると、村井は地下鉄にサリンを撒くことを提案し麻原も同意した。
総指揮は村井、現場指揮は井上が担当となった。村井は実行役として今度正悟師になる科学技術省所属林泰男、広瀬健一、横山真人、豊田亨を推薦し、麻原が林郁夫も加えた(ちなみに松本サリン事件では逆に林郁夫を麻原の指示で実行役から外している)。
また井上が島田裕巳宅爆弾事件、東京総本部火炎瓶事件を実行し、事件は反オウムの者によるオウム潰しの陰謀と思わせて同情を集めることも計画された。石川公一も自分の足を狙撃して自作自演事件を起こしたらどうかと志願したが、麻原はそこまでしなくていいとして止めた。
謀議内容については井上の証言に頼るものとなっているが、他に遠藤が「サリンつくれるか」「条件が整えば…」の発言があったことを証言している。
犯行
・3月20日
・午前0時頃 - 井上嘉浩、サリン到着が遅いため井上が独断で東京から上九に向け出発し連絡不能に。上九で麻原に怒られる
・午前2時頃 - 麻原は実行役に渋谷アジトから上九への帰還を指示。また、サリン袋に触れ修法(エネルギーを吹き込む儀式)を行う。先に井上が上九に到着するが、独断での出発を叱責される
・午前2時30分頃 - 井上がコンビニからビニール傘7本を購入。滝澤和義がグラインダーで傘先を削る
・午前3時頃 - 実行役5人と運転手杉本繁郎・外崎清隆、第7サティアンに到着。村井秀夫にサリンを撒く方法を教わり水で練習、その後サリン袋を受け取る
・午前5時頃 - 実行役5人と杉本繁郎・外崎清隆、渋谷アジトに再移動
千代田線(我孫子発代々木上原行)
千代田線の我孫子発代々木上原行き(列車番号A725K、JR東日本常磐線から直通)は、散布役を林郁夫、送迎役を新実智光が担当した。当該編成はJR東日本松戸電車区(現・松戸車両センター)所属の203系マト67編成(クハ202-107以下10連)であった。
マスク姿の林郁夫は千駄木駅より入場し、綾瀬駅と北千住駅で時間を潰した後、先頭1号車(クハ202-107)に北千住駅(7時48分発)から乗車した。8時2分頃、新御茶ノ水駅への停車直前にサリンのパックを傘で刺し、逃走した。穴が開いたのは1袋のみであった。列車はそのまま走行し、二重橋前駅 - 日比谷駅間で乗客数人が相次いで倒れたのを境に次々に被害者が発生し、霞ケ関駅で通報で駅員が駆け付け、サリンを排除した。当該列車は霞ケ関駅を発車したが更に被害者が増えたことから次の国会議事堂前駅で運転を打ち切った(その後、回送扱いとなり、松戸電車区へ移動)。サリンが入っているとは知らずにパックを除去しようとした駅員数名が被害を受け、うち駅の助役と応援の電車区の助役の2人が死亡し、231人が重症を負った。
丸ノ内線(池袋発荻窪行)
丸ノ内線の池袋発荻窪行き(列車番号A777)は、散布役を広瀬健一、送迎役を北村浩一が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第16編成(02-116以下6連)であった。
広瀬は2号車 (02-216) に始発の池袋駅(7時47分発)から乗車し、茗荷谷駅か後楽園駅停車時に3号車(02-316)に移動、ドアに向かって立ち、御茶ノ水駅到着時サリンを散布した。中野坂上駅で乗客から通報を受けた駅員が重症者を搬出し、サリンを回収したが、列車はそのまま運行を継続し終点荻窪駅に到着。新しい乗客が乗り込みそのまま折り返したため、新高円寺駅で運行が停止されるまで被害者が増え続けることとなった。また、広瀬自身もサリンの影響を受け、林郁夫によって治療を受けた。この電車では1人が死亡し、358人が重症を負っている。
丸ノ内線(荻窪発池袋行)
丸ノ内線の荻窪発池袋行き(列車番号B701)は散布役を横山真人、送迎役を外崎清隆が担当した。当該編成は営団中野検車区所属の02系第50編成(02-150以下6連)であった。
横山は5号車 (02-550) に新宿駅(7時39分発)から乗車し、高架駅である四ツ谷駅進入時にパックに穴を開けサリンを散布した。穴が開いたのは1袋のみであった[23]。列車は8時30分に終点池袋駅に到着。その際、本来ならば駅員によって車内の遺留物の確認が行われるが、どういうわけかこの時は行われず、折り返し池袋発荻窪行き(列車番号A801)として出発した。本郷三丁目駅で駅員がサリンのパックをモップで掃除したが、運行はそのまま継続され、荻窪駅到着後に再び荻窪発池袋行き(列車番号B901)として池袋駅に戻った。列車は新宿駅に向け運行を継続した。列車はサリン散布の1時間40分後、9時27分に国会議事堂前駅で運行を中止した。同線では約200人が重症を負ったが、この電車は唯一死者が出なかった。
日比谷線(中目黒発東武動物公園行)
日比谷線の中目黒発東武動物公園行き(列車番号B711T、北千住駅から東武伊勢崎線へ直通)は、散布役を豊田亨、送迎役を高橋克也が担当した。当該編成は東武春日部検修区所属の20000系第11編成(21811以下8連)であった。
豊田は先頭車両 (28811) に始発の中目黒駅(7時59分発)から乗車し、ドア付近に着席、恵比寿駅進入時サリンのパックを刺した(ニュースやワイドショーなどで、当該車両のドア脇に転がったサリンのパックが撮影された写真が用いられている)。六本木駅 - 神谷町駅間で異臭に気付いた乗客が窓を開けたが複数の乗客が倒れた。神谷町駅に到着後、乗客が運転士に通報し、被害者は病院に搬送された。その後、後続列車が六本木駅を出たため、先頭車両の乗客は後方に移動させられ、列車は霞ケ関駅まで走行したのち、運行を取り止めた。この電車では1人が死亡し、532人が重症を負っている(後に、事件翌日に心筋梗塞で死亡した1人についても、サリン中毒死と認定された)。サリンの撒かれた車両には映画プロデューサーのさかはらあつしも乗り合わせていた。また当時共同通信社員の辺見庸が神谷町駅構内におり、外国人1人を救出した。
日比谷線(北千住発中目黒行)
日比谷線の北千住発中目黒行き(列車番号A720S)は、散布役を林泰男、送迎役を杉本繁郎が担当した。当該編成は営団千住検車区所属の03系第10編成(03-110以下8連)であった。
他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林泰男は3パックを携帯した。また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。彼は北千住7時43分発中目黒行きの3号車 (03-310) に上野駅から乗車した。そして、秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布した。乗客はすぐにサリンの影響を受け、次の小伝馬町駅で乗客がサリンのパックをプラットホームに蹴り出した。この状況下で一般乗客のとっさの判断を責められるものではないが、後にサリンによる被害が拡大することになってしまった。
サリンのパックを小伝馬町駅で蹴り出した当該列車は、サリンの液体が車両の床に残ったまま運行を継続したが、5分後八丁堀駅停車中に再度パニックに陥り、複数の乗客が前後の車両に避難し始めた。8時10分に乗客が車内非常通報装置を押すと列車は築地駅で停車し、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れた(この時の救出時の光景がテレビで中継された)。列車は直ちに運転を打ち切った。この光景を目撃した運転士が指令センターに「3両目から白煙が出て、複数の客が倒れている」と通報したため「築地駅で爆発事故」という憶測が続いた。
小伝馬町駅ではサリンのパックが出されたことで、A720Sの後続列車である、八丁堀・茅場町・人形町・小伝馬町で運転を見合わせた4つの列車と、小伝馬町駅の手前で停止し、小伝馬町駅に停まっていた列車を人形町駅の手前まで退避させた後に小伝馬町駅に停車した列車の5列車も被害を受けた。小伝馬町駅では5列車が到着し、うち2列車が小伝馬町駅で運転を打ち切ったため、狭いホームに多数の乗客が下ろされ、列車の風圧などでホーム全体に広がったサリンを多数の乗客が吸引する結果となり、当駅では4人が死亡した。
これにより、本事件で最多となる6列車が被害を受け、8人が死亡し2,475人が重症を負った。
事件後
事件後、実行犯らは渋谷アジトでテレビを見て事件の発生を確認し、新実智光は死人が出たことを知ると大はしゃぎしたという。使った傘など証拠品は多摩川で焼却した後、実行犯らは第6サティアンに帰還して麻原に報告した。麻原は、「ポアは成功した。シヴァ大神、すべての真理勝者方も喜んでいる。」「これはポアだからな、分かるな。」と、あくまで事件はポアであったことを強調した。そして、「『グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方の祝福によって、ポアされてよかったね。』のマントラを1万回唱えなさい」と命じ、おはぎとオレンジジュースを渡した。
その他
・林泰男の証言によると、当初の井上案では運転手役は平田信、杉本繁郎、男性信者(ホーリーネームはキタカ)で、平田信と林泰男、杉本繁郎と広瀬健一、キタカと横山真人で組まれたが(残りの豊田亨と林郁夫は未定)、3月19日に麻原の指示で運転手役は杉本以外変更された。
・サリンパックを包んだ新聞は、広瀬健一(丸ノ内線荻窪行)のものが新聞名不明のスポーツ紙、横山真人(丸ノ内線池袋行)のものが日本経済新聞、豊田亨(日比谷線東武動物公園行)のものがスポーツ報知、林泰男(日比谷線中目黒行)のものが読売新聞、林郁夫(千代田線代々木上原行)のものがしんぶん赤旗であったとされている。赤旗を使用したのは林郁夫の運転手役の新実智光が「駅で買えないような新聞のほうが面白い」と考えたためで、現場に向かう途中で総評会館の玄関から抜いて持ってきた。また一緒に聖教新聞を配達員からもらってきたが、創価学会に罪をなすりつけることを考えると流石にこれは露骨すぎということで、外側を聖教新聞、内側を赤旗とし、内側の赤旗とサリンだけを落とした。
緊急処置
事件発生後の8時10分、日比谷線は複数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅と神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。次第に被害が拡大したため営団は8時35分、日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、更に被害発生の確認が遅かったため、運行が継続された。
9時27分、営団地下鉄のすべての路線で全列車の運転見合わせを決定した(当時営団地下鉄の他路線との接続がなかった南北線も含む。副都心線は有楽町線併走区間を除いて未開業)。その後、全駅・全列車を総点検し、危険物の有無を確認した。
被害者が多く発生した霞ケ関・築地・小伝馬町・八丁堀・神谷町・新高円寺のほか、人形町・茅場町・国会議事堂前・本郷三丁目・荻窪・中野坂上・中野富士見町の13駅にて救護所を設置し、病院搬送前の被害者の救護に対応した。
大混乱に陥った日比谷線は終日運転を取りやめることになり、丸ノ内線・千代田線については被災車両を車庫や引込み線に退去させたのち、霞ケ関駅を通過扱い(停車はするがドアの開閉はしないでそのまま発車)して運転を再開したが、サリンが散布されたことが判明して自衛隊による除染作業の必要が生じた。そのため正午から約数時間、丸ノ内線は銀座駅 - 四谷三丁目駅間、千代田線は大手町駅 - 表参道駅間を部分運休した(このとき、霞ケ関駅の引込み線にあった千代田線の被災車両(203系マト67)も松戸電車区(現松戸車両センター)まで回送されている)。除染作業終了後はほぼ所定どおりのダイヤで運転を再開したが、終電まで霞ケ関駅を通過扱いする措置をとった。
上記3路線以外の路線は確認を終えた路線から順次運転を再開させたが、全駅、全列車に警察官、警備員などが配置される異例の事態となった。
事件直後、この5編成以外の編成で事件が発生したという情報もあったが、これは情報の錯綜などによる誤報であり、5編成以外で発生はなかった。しかし、乗客等に付着したり、気化したりしたサリンは他の駅や路線にも微細に拡散していった。
地下鉄サリン事件で使用された液体は純度が低く混合液で、その内サリンは35%程度であることが判明している。このためヘキサンなどに由来する異臭が発生した。なお純度の高いものは無色無臭で、皮膚からも体内に浸透する。これに関して、麻原は1日程度で終わるサリン分留について「ジーヴァカ(遠藤)、いいよ、それで。それ以上やらなくていいから。」と遠藤誠一に言っており、純度よりも攻撃を最優先させたのではないかとされている。
救助活動
東京消防庁は化学機動中隊・特別救助隊・救急隊など多数の部隊を出動させ被害者の救助活動や救命活動を行った。東京消防庁はこの事件に対して救急特別第2、救助特別第1出場を発令、延べ340隊(約1,364人)が出動し被害者の救助活動・救命活動を展開した。
警視庁では東京消防庁との連携の下、警察当局としてもまずは機動隊を出動させ被害者の救助活動と後方の警戒にあたった。
当初は「地下鉄で爆発」「地下鉄車内で急病人」など誤報の通報が多くサリンによる毒ガス散布が原因とは分からなかったため、警察も消防も無防備のまま現場に飛び込み被害者の救出活動を行った。現場では、東京消防庁の化学災害対応部隊である化学機動中隊が、原因物質の特定に当たったが、当時のガス分析装置にはサリンのデータがインプットされておらず、溶剤のアセトニトリルを検出したという分析結果しか得られなかった(ただし、サリンの溶剤としてアセトニトリルが使用されていた可能性がある)。さらに、この分析結果は、「化学物質が原因の災害である」ことを示す貴重な情報であったにもかかわらず、全現場の消防隊に周知されるまで、時間を要した。
解毒剤
有機リン系中毒の解毒剤であるプラリドキシムヨウ化メチル (PAM) は主に農薬中毒の際に用いられるものであり、当時多くの病院で大量ストックする種類の薬剤ではなく、被害がサリンによるものだと判明すると同時に都内でのストック分が使い果たされてしまった。このため全国の病院・薬品卸会社へ供出令が出されることになり、東海道新幹線や空路を使って東京に送り届けられた(後述)。
警察・検察
霞ヶ関の官公庁の公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤することが多いがしかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多い。
警察庁では午前9時に対策本部を設置した。警視庁でも井上幸彦警視総監をトップに対策本部を設置。警視総監が事件の総合調整と捜査の総指揮を行った。対策本部には警視庁刑事部長、刑事部参事官・捜査一課長・捜査一課理事官・捜査一課管理官など主だった刑事部幹部と捜査幹部が招集され警備公安警察の各部長も招集された。
通常の捜査は過去の出来事を調べるものだが、オウム真理教事件では目前で新たな事件が次々に起こっており、新たなテロを食い止める必要があったためにあらゆる法律を駆使したぎりぎりの判断を迫られるものであった。ゴールデンウィークが迫る頃には政府から警察に対し安全確保の要請が来た。東京ドームや新幹線でサリンを撒かれると大きな被害を出すという理由であった。
鑑識
警察と消防が救出活動を行っている最中、捜査当局も救出活動と並行しつつ現場検証を行った。警視庁鑑識課が現場へ急行し、散布された液状サリンのある地下鉄内に入って地下鉄車両1本を丸ごと封鎖し現場検証を開始した。
警察官が発見した事件現場の残留物の一部は、警視庁科学捜査研究所へ持ち込まれた。鑑定官が検査するとその毒物が有毒神経ガス「サリン」であると判明。この情報は、午前11時の捜査一課長による緊急記者会見などを通じて関係各所へ伝達され、医療機関は対NBC兵器医療を開始した。
東京消防庁・病院
東京消防庁には事件発生当初、「地下鉄車内で急病人」の通報が複数の駅から寄せられた。次いで「築地駅で爆発」という119番通報と、各駅に出動した救急隊からの「地下鉄車内に異臭」「負傷者多数、応援求む」の報告が殺到したため、司令塔である災害救急情報センターは一時的にパニック状態に陥った。
この事件では特別区(東京23区)に配備されているすべての救急車が出動した他、通常の災害時に行われている災害救急情報センターによる傷病者搬送先病院の選定が機能不全となり、現場では、救急車が来ない・救急車が来ても搬送が遅いという状況が見られた。
緊急に大量の被害者の受け入れは通常の病院施設では対応困難なものであるが、大きな被害の出た築地駅至近の聖路加国際病院は当時の院長日野原重明の方針から大量に患者が発生した際にも機能できる病院として設計されていたため、日野原の「今日の外来は中止、患者はすべて受け入れる」との宣言のもと無制限の被害者の受け入れを実施、被害者治療の拠点となった。又、済生会中央病院にも救急車で被害者が数十名搬送され、一般外来診療は直ちに中止。その後、警察から検証の為にとの理由で、被害者の救急診療に携わった病院スタッフの白衣などが押収された。虎の門病院も、数名の重症被害者をICU(集中治療室)に緊急入院させ、人工呼吸管理、大量のPAM投与など高度治療を行うことで治療を成功させた。また、翌日の春分の日の休日を含め特別体制で、数百人の軽症被害者の外来診療を行った。
また、聖路加国際病院から「大量のプラリドキシムヨウ化メチル(PAM)が必要」と連絡を受けた、名古屋に本社を置く薬品卸会社のスズケンは、首都圏でのPAMの在庫が病院も含めほとんどなかったことから、東海道新幹線沿線にある各営業所および病院・診療所にストックしてあるPAMの在庫を集め、東京に迅速に輸送する為に、名古屋駅から社員を新幹線に乗せ、浜松・静岡・新横浜の各駅のホームで、乗っている社員に直接在庫のPAMを受け渡して輸送する緊急措置を取った。陸上自衛隊衛生補給処からもPAM 2,800セットが送られた。またPAMを製造する住友製薬は、自社の保有していたPAMや硫酸アトロピンを関西地区から緊急空輸し羽田からはパトカー先導にて治療活動中の各病院に送達した。PAMは赤字の医薬品であったが、系列の住友化学にて有機リン系農薬を製造していたため、会社トップの決断で、有機リン薬剤を作っている責任上解毒剤も用意しておくのは同社の責任だとして毎年製造を続けていた。
有機リン系農薬中毒の治療に必要なPAMの本数は一日2本が標準であるが、サリンの治療には、2時間で2本が標準とされる。
当時サリン中毒は医師にとって未知の症状であったが、信州大学医学部附属病院第三内科(神経内科)教授の柳澤信夫がテレビで被害者の症状を知り、松本サリン事件の被害者の症状に似ていることに気付き、その対処法と治療法を東京の病院にファックスで伝えたため、適切な治療の助けとなった。一方で、「急病人」「爆発火災」「異臭」という通報で駆けつけた警察官や消防官の多くは、サリンに対してはまったくの無防備のまま、地下鉄駅構内に飛び込み、救急救命活動に当たったため、多数の負傷者を出した。
この事件は、目に見えない毒ガスが地下鉄で同時多発的に散布されるという状況の把握が非常に困難な災害であり、トリアージを含む現場での応急救護活動や負傷者の搬送、消防・救急隊員などへの二次的被害の防止といった、救急救命活動の多くの問題を浮き彫りにした。
自衛隊
陸上自衛隊では、警察に強制捜査用の化学防護服や機材を提供していた関係上、初期報道の段階でオウムによるサリン攻撃であると直ちに判断。事件後地下鉄内に残されたサリンの除去に、創設後初めて陸上自衛隊大宮化学学校教官と、化学防護小隊が当たった。事件発生29分後には自衛隊中央病院などの関係部署に出動待機命令が発令され、化学科職種である第101化学防護隊、第1・第12師団司令部付隊(化学防護小隊)及び陸上自衛隊化学学校から教官数人が専門職として初めて実働派遣された。除染を行う範囲が広範囲であったため、第32普通科連隊を中心とし各化学科部隊を加えた臨時のサリン除染部隊が編成され、実際の除染活動を行った
また、自衛隊では警察庁の要請を受けて、自衛隊中央病院及び衛生学校から医官21名及び看護官19名が、東京警察病院・聖路加国際病院等の8病院に派遣され、硫酸アトロピンやPAMの投与や、二次被曝を抑制する除染といったプロセスを指示する『対化学兵器治療マニュアル』に基づいて、治療の助言や指導を行った。
幸い自衛隊中央病院から駆けつけた医官が直前の幹部研修において化学兵器対応の講習を受けており、現場派遣時とっさに講習資料を持ち出し、到着した聖路加病院で講習で得た知識・資料と患者の様子から化学兵器によるテロと判断し、PAMや硫酸アトロピンの使用を進言したのも早期治療に繋がった。
なお、自衛隊では関東周辺の陸上自衛隊各部隊に対し非常呼集対応を行なったものの、実働は本稿に記載されているように、最小限の部隊の配属のみが実施されている。
報道関係
在京キー局の中で、現場映像と同時に事件速報がもっとも早かったのが、テレビ朝日で生放送中だった『スーパーモーニング』であった。事件が発生した日、在京キー局の地上波テレビではNHK教育以外全ての局において8時30分以降の通常番組が報道特別番組に変更された。また、事件発生から2日後の強制捜査の中継も放送された。
新聞・テレビなどの各マスメディアは、本年1月に発生した阪神・淡路大震災を中心に報道してきたが、事件発生日を境に全国ネットのメディアはほとんどがこのサリン事件を中心に報道するようになった。テレビではワイドショーや一般のニュース番組でこの事件やオウム真理教の事を事細かく報じ(興味本位の報道も目立った)、毎週1、2回は「緊急報道スペシャル」として、ゴールデンタイムにオウムに関する報道特番が放送された。新聞も一般紙はもちろんのことスポーツ紙までが一面にオウムやサリンの記事を持ってくる日がほとんどで事件当時開幕を控えていたプロ野球関係の記事が一面に出ることは5月までほとんどなかった。この過熱報道は麻原が逮捕される日まで続いた。
事件の発生はただちに世界各国へ報じられ、その後も世界各地ではオウム関連のニュースはトップとして扱われた(国松長官狙撃事件や全日空857便ハイジャック事件、麻原教祖逮捕など)。ドイツでは『ナチスの毒ガス(=サリンの意)東京を襲う』と報道された。オウム真理教による一連の行動を東京支局を含めて全く察知していなかったアメリカ合衆国のCNNでは、東京支局経由で速報を伝える段階で「アラブ系テロリストによる犯行の可能性がある」と間違って報じた。
被害者
事件の目撃者は地下鉄の入り口が戦場のようであったと語った。多くの被害者は路上に寝かされ、呼吸困難状態に陥っていた。サリンの影響を受けた被害者のうち、軽度のものはその徴候にもかかわらず医療機関を受診せず仕事に行った者もおり、多くはそれによって症状を悪化させた。列車の乗客を救助したことでサリンの被害を受けた犠牲者もいる。
目撃者や被害者は現在も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しみ、電車に乗車することに不安を感じると語る。また、慢性的疲れ目や視力障害を負った被害者も多い。被害者の8割が目に後遺症を持っているとされる。そのほか、被害者は癌に罹患する者も一般の者に比べて多い傾向があり、事件後かなり経ってから癌で亡くなる被害者も少なくない。
また、その当時重度な脳中枢神経障害を負った被害者の中には、未だに重度な後遺症・神経症状に悩まされ、苦しめられている者も数多くいる。
裁判では迅速化のため、重症者は14人だけに絞る訴因変更を行っている。
作家の村上春樹による被害者へのインタビュー集『アンダーグラウンド』があるほか、自身も事件に巻き込まれた映画プロデューサーのさかはらあつしによる著書『サリンとおはぎ』がある。
ジャーナリストの辺見庸も事件に遭遇した自身の体験をもとに評論、エッセイ、小説などを書いている。
その他、フリーダイビング選手の岡本美鈴やカメラマンの野澤亘伸もこの事件に遭遇している。
2009年、裁判員候補にサリン事件の被害者が選ばれたため、問題となった(実際には裁判員にならなかった)。

真犯人の発覚
強制捜査
教団の目論見とは裏腹に事件の2日後の22日、全国の教団施設計25箇所で家宅捜査を実施した。家宅捜査で自動小銃や、軍用ヘリ、更にはサリンの製造過程で使用されるイソプロピルアルコールや三塩化リンなどの薬品も発見された。また、事件前の1月には上九一色村の土壌からサリンの残留物が検出されたことから地下鉄サリン事件はオウム真理教が組織的に行ったと推定したが、決定的な証拠が得られなかった。
警察が強制捜査に着手したのは地下鉄サリン事件の2日後だが、オウム真理教の全体像すらつかめない中での捜査であり、1ヶ月後には捜査は行き詰っていた。サリンをまいた実行犯すら分からず、松本智津夫ら幹部を逮捕する容疑が見つからなかった。
強制捜査後、オウム側は関与を否定するため、
・サリンの原料は農薬をつくるためであり第7サティアンも農薬プラント
・その他の劇物も兵器用ではない、劇物の保有量が多いのは不売運動に遭っているのでなるべく大量購入しているだけ
・オウムは米軍機などから毒ガス攻撃を受けており、上九一色村で発見されたサリン残留物は彼らが撒いたもの
・オウムがやったなら東京にも信者がいるので巻き添えになる
・小沢一郎や森喜朗、創価学会の陰謀
といった主張を唱えた。
判明
事件から19日後の4月8日、教団幹部であった林郁夫を放置自転車窃盗の容疑で逮捕した。警察は当初、教団の実態把握を目的に取調べを行っていたが、麻原や教団に不信感があった林が「私が地下鉄にサリンを撒いた」と取り調べていた検事に対し自白。地下鉄サリン事件の役割分担などの概要を自筆でメモに記した。このメモで捜査は一気に進み、5月6日、警察は事件をオウム真理教による組織的犯行と断定し一斉逮捕にこぎつけた。この頃にはすでに新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件などが相次いでいた。
4月23日、村井秀夫刺殺事件が発生。これにより事件のキーパーソンである村井の持つ情報を引き出すことが永久に不可能となった。
余波
地下鉄サリン事件は国内史上最悪のテロ事件であった。日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であるとともに1994年(平成6年)に発生したテロ事件である松本サリン事件に続き、一般市民に対して化学兵器が使用されたテロ事件として全世界に衝撃を与え、世界中の治安関係者を震撼させた。
オウム真理教
一連のオウム真理教事件によりオウム真理教は宗教法人の認証認可取り消し処分を受けた。警察の捜査と幹部信者の大量逮捕により脱退者が相次ぎ(地下鉄サリン事件の発生から2年半で信徒数は5分の1以下になった)、オウムは組織として大きな打撃を受け破産したが、現在はアレフに改組し活動を続けている。アレフ2代目代表で、現ひかりの輪代表の上祐史浩は、地下鉄サリン事件が起きた際、オウム真理教の事件の関与を否定し続けたスポークスマンであった。日本の公安審査委員会は破壊活動防止法(破防法)に基づく解散措置の適用を見送ったが、オウム新法(団体規制法)が制定され、アメリカ国務省は現在もアレフをテロリストグループに指定している。
地方自治体や賃貸住宅が信者の居住を拒否したり、商店主が信者への商品の販売を拒否する事例も相次いだ。また、信者への住居の賃貸、土地の販売の拒絶も相次ぎ、一部の自治体では信者の退去に公金を使うこととなった。
被害者の後遺症・PTSD
事件の被害者は後遺症に悩まされる日々が続いている。視力の低下など、比較的軽度のものから、PTSDなどの精神的なもの、重度では寝たきりのものまで、被害のレベルは様々であるが、現在の所被害者への公的支援はほとんど無い。
不審物への対応
この事件後、全国の多くの駅ごみ箱が撤去され、営団地下鉄はこれ以降全車両のドアに「お願い 駅構内または車内等で不審物・不審者を発見した場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務員にお知らせ下さい」という文面の警告ステッカーを貼りつけた(その後、東京地下鉄(東京メトロ)への移行に前後して英語版も掲出、同時期に都営地下鉄にも拡大)。同様のステッカーが他の鉄道事業者に波及するようになるのはアメリカ同時多発テロ事件以降である。その後、各鉄道事業者で中身が見えるゴミ箱が設置されるようになり、東京メトロでも2005年4月から設置されている。
裁判で未解決の問題
事件で使用されたサリンの原料は誰が保管していたのか
地下鉄サリン事件ではメチルホスホン酸ジフロライドCH3P(O)F2(裁判での通称「ジフロ」、一般的には「DF」)からサリンが作られた。検察側は、サリンを作るために中川が保管していたと主張。中川は「中和できなかったためにVXと一緒に井上が持っていたものがサリンの原料になった」と主張した。この点について井上は、「VXは預かっていたが他は知らない」と証言した。
中川によると、このジフロは1995年1月5日に村井秀夫と共にクシティガルバ棟を再点検した際にVXと共に発見されたもので、中川は体調が悪く土谷正実もサリン中毒、そのうえ防護服も処分していたので中和は断念し、保存されることになったという。
中川の最初の主張
ジフロは自分が持っていた。ジフロがあればサリンをすぐ生成できるため、捨てるのが惜しくなって第二上九の塩置き場に隠していた。
中川の新主張
ジフロは井上が持っていた。強制捜査で発見されないように、とりあえず井上に渡し杉並アジトへ持っていかせそこでVXと一緒に保管していた。そして1995年3月18日夕方に村井がジフロを持ってきていて、サリン製造をやるように指示された。
主張が変わった理由は、ジフロと一緒にVXを保管していたのでVX事件が明らかになる恐れがあり、井上に悪いと思ったため。
サリン事件前日にジフロを上九一色村に持ち帰ったのは井上の可能性が高い。村井には保管場所を教えていないし、フットワークも軽くない。
中川以外の裁判では検察側の主張が認められたが、中川の裁判では事実上中川の主張が認められて、ジフロが残っていた理由や誰が持っていたのかについては不明と認定された。裁判によって認定が異なり、結論が出ていない。
警察は地下鉄サリン事件を予期していたのか
2010年(平成22年)2月22日、共同通信は、事件当時の警察庁長官だった国松孝次が地下鉄サリン事件被害者の会代表世話人である高橋シズヱのインタビューに答えて「警察当局は、オウム真理教が3月22日の強制捜査を予期して何らかのかく乱工作に出るという情報を事件の数日前に得ていた」と発言した報道を配信した。国松は「情報に具体性がない」ために予防措置を講じることは不可能だったとの認識を示しているが、共同通信は「当時の捜査があらためて問われそうだ」と報道している。
これとは別に、警察が事前にサリンが撒かれることを知っていたのではないかという指摘も存在する。事件の2日後の3月22日に予定されていた教団施設への一斉捜索に備え、地下鉄サリン事件の直前の教団幹部の動きはすべて警察によって把握されていたはずだという。また、事件前日に自衛隊が朝霞駐屯地でガスマスクを着けてサリンに対応した捜索の演習を行っており、警察は地下鉄サリン事件が起こる前にオウムがサリンを持ってることを把握していたはずとも指摘されている。
また、1995年1月1日のスクープを出した元読売新聞記者三沢明彦によると、捜索は4月の統一地方選の後に予定されていたという。<.p>
異説
予言の成就説
検察側は、地下鉄サリン事件が警察による教団に対する大規模な強制捜査をかく乱する目的であったと主張した。裁判所は検察側の主張通り、「間近に迫った教団に対する強制捜査もなくなるだろうと考え」た、との認定をした。
しかし井上嘉浩は、2014年2月4日の平田信公判において「サリンをまいても、強制捜査は避けられないという結論で、議論が終わっていた。しかし松本死刑囚は、『一か八かやってみろ』と命じた。自分の予言を実現させるためだったと思う。」、2015年2月20日の高橋克也の公判において「『宗教戦争が起こる』とする麻原の予言を成就させるために、事件を起こしたと思った」と証言している。なお、リムジンに同乗していた側近も含めて多くの幹部信者たちが、「サリンを撒いたところで強制捜査がなくなるわけではないし、むしろ早まる可能性があると考えていた」と証言している。
井上は証言がよく揺れており、この証言について、井上が平田公判で初めて証言したとの批判があるが、実際は1996年11月8日の麻原公判で証言していると本人は主張している。
また別の意見として、土谷正実は麻原信仰を続けていたころ法廷で「サリンの散布で国家転覆はできない」「大量殺人が目的とすれば、私なら(サリンと比べて合成がはるかに簡単な)青酸を使う」と語った。
弟子の暴走説
裁判で麻原と弁護団は弟子が暴走したと主張。しかし麻原の地下鉄サリン事件への関与はリムジン謀議だけに留まるものではなく、他にも「(遠藤誠一に対し)ジーヴァカ、サリン造れよ」「ポアされてよかったね」「(犯行を目撃されたことを気にする豊田亨に対し)大丈夫だよ。見た人はいってるよ」と地下鉄サリン事件の発生をむしろ喜んでいるような発言を行っていることが裁判で認定され、結局弟子の暴走説は認められず麻原は本事件の首謀者とされた。
死刑確定後も森達也らによって主張されているが、森は判決文を意図的に無視し、リムジン謀議以外の麻原の関与をなかったことにしていると滝本太郎らに批判されている。この他、運転手役の一人である杉本繁郎からもありえないと指摘されている。
関連事件
・4月19日には横浜駅異臭事件が発生したが、オウムとは全く関係無い便乗犯による犯行であった。この他にも、比較的入手しやすい塩素系ガス(致死性があり有毒ガスではあるが殺人に適しているとは言いがたい)を使った便乗犯・愉快犯が相次いだ。
・5月16日、麻原逮捕の夜、青島幸男東京都知事(当時)宛の郵便物が開封した瞬間に爆発する事件が発生する(東京都庁小包爆弾事件)。
・同年6月に起きた全日空857便ハイジャック事件で犯人がオウム教団を名乗り、液体の入ったペットボトル(サリン入りとしていたが実際には水)を見せ「松本を釈放しろ」と要求した。犯人逮捕後、オウムとは無関係の愉快犯によるものであったことが判明した。
・3月30日、事件の指揮に当たった、国松孝次警察庁長官(当時)が自宅のマンション前で銃撃される事件が発生(警察庁長官狙撃事件)。オウム捜査との関連が疑われたが、犯人が特定されないまま、2010年3月30日に時効を迎えた。
弟子の暴走説
裁判で麻原と弁護団は弟子が暴走したと主張。しかし麻原の地下鉄サリン事件への関与はリムジン謀議だけに留まるものではなく、他にも「(遠藤誠一に対し)ジーヴァカ、サリン造れよ」「ポアされてよかったね」「(犯行を目撃されたことを気にする豊田亨に対し)大丈夫だよ。見た人はいってるよ」と地下鉄サリン事件の発生をむしろ喜んでいるような発言を行っていることが裁判で認定され、結局弟子の暴走説は認められず麻原は本事件の首謀者とされた。
死刑確定後も森達也らによって主張されているが、森は判決文を意図的に無視し、リムジン謀議以外の麻原の関与をなかったことにしていると滝本太郎らに批判されている。この他、運転手役の一人である杉本繁郎からもありえないと指摘されている。
関連事件
・4月19日には横浜駅異臭事件が発生したが、オウムとは全く関係無い便乗犯による犯行であった。この他にも、比較的入手しやすい塩素系ガス(致死性があり有毒ガスではあるが殺人に適しているとは言いがたい)を使った便乗犯・愉快犯が相次いだ。
・5月16日、麻原逮捕の夜、青島幸男東京都知事(当時)宛の郵便物が開封した瞬間に爆発する事件が発生する(東京都庁小包爆弾事件)。
・3月30日、事件の指揮に当たった、国松孝次警察庁長官(当時)が自宅のマンション前で銃撃される事件が発生(警察庁長官狙撃事件)。オウム捜査との関連が疑われたが、犯人が特定されないまま、2010年3月30日に時効を迎えた。
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NHKアイカーブス 地下鉄サリン事件
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