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JR福知山線脱線事故



JR福知山線脱線事故(ジェイアールふくちやませんだっせんじこ)は、2005年(平成17年)4月25日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 - 尼崎駅間で発生した列車脱線事故である。乗客と運転士合わせて107名が死亡、562名が負傷した。

概要


12005年(平成17年)4月25日午前9時18分頃、兵庫県尼崎市久々知にある福知山線塚口駅 - 尼崎駅間の右カーブ区間[2](曲率半径300m。塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で宝塚発JR東西線・片町線(学研都市線)経由同志社前行き上り快速(列車番号5418M、7両編成)の前5両が脱線。うち前4両は線路から完全に逸脱。先頭の2両は線路脇の分譲マンション「エフュージョン尼崎」(2002年竣工)に激突。先頭車は1階ピロティ部の駐車場へ突入。2両目はマンション外壁へ横から激突しさらに脱線逸脱してきた3 - 4両目と挟まれて圧壊。外壁にへばりつく様な状態で、1 - 2両目は原形をとどめない程に大破した。また、3 - 4両目は反対側の下り線路を支障していた。

事故列車は、直前の停車駅である伊丹駅で所定の停車位置を超過(オーバーラン)していた。これについて、事故が起きる前に運転士が車掌に対してオーバーランの距離を短くするように打診して、車掌が新大阪総合指令所(現在の大阪総合指令所)に対して約70mのオーバーランを8mと報告し、JR西日本も当初車掌の証言通り8mのオーバーランと発表していた。 このことから、事故後に他の路線や鉄道会社において発生した列車のオーバーランについても大きくクローズアップされた。さらにJR西日本が事故当日に行った発表の中で、線路上への置石による脱線の可能性を示唆したことから、愉快犯による線路上への置石や自転車などの障害物を置くといった犯罪も相次いだ。

事故発生と同時刻には、並行する下り線に新大阪発城崎温泉行きの特急「北近畿3号」が接近中だったが、事故を目撃した近隣住民が近くの踏切支障報知装置(踏切非常ボタン)を押したため、特殊信号発光機が点灯。運転士が異常を察知し、およそ100m手前で緊急停止して防護無線を発報しており、二重事故は回避された。事故後、現場の曲率半径300mの曲線区間は制限速度70km/hから60km/hに、手前の直線区間は120km/hから95km/hへとそれぞれ変更された。

事故列車は、4両編成と途中の片町線(学研都市線)京田辺駅で切り離す予定だった3両編成を連結した7両編成で運転していた。前から1・4・5・7両目の運転台のある車両に列車の運行状態(非常ブレーキ作動の前後5秒間)を逐一記録する「モニター制御装置」の装備があり、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目(後部3両編成の先頭車両)と7両目に時速108kmの記録が表示されていた。ただし、これが直ちに脱線時の速度を示しているとは限らない。先頭車両が脱線、急減速した影響で車列が折れ、連結器部分で折り畳まれるような形になったために、側面から玉突きになって被害が拡大したものとされる。

当時、事故車両の1両目は、片輪走行で左に傾きながら、カーブ開始点付近の線路そば電柱に接触しマンション脇の立体駐車場と同スペースに駐車していた乗用車を巻き込むと共に左に横転、マンション1階の駐車場部分へと突入し奥の壁に激突。続く2両目も、片輪走行しながら、マンションに車体側面から叩きつけられる状態に加えて3両目に側面から挟まれるように追突されたことによって、建物に巻きつくような形でくの字型に大破。3両目は、進行方向と前後が逆になる。4両目は、3両目を挟むようにして下り線(福知山方面)の線路と西側側道の半分を遮る状態でそれぞれ停止した。なお、事故発生当初、事故車両の2両目部分が1両目と誤認されていた。のちに本来存在しているべき車両数(7両)と目視で確認できる車両数(6両)が一致しないことから捜索され、発見された。

駐車場周辺において電車と衝突して大破した車からガソリン漏れが確認されており、引火を避け被害者の安全を確保するためにバーナーや火花が散る電動カッターを用いることができず、救助作業は難航した。また、3両目から順に車両を解体する作業を伴い、徹夜で続けられた救助作業は事故発生から3日後の4月28日に終了した。

被害

近隣住民および下り列車に対しての二次的被害は免れたものの、直接的な事故の犠牲者は死者107名(当該列車の運転士含む)、負傷者562名を出す、交通機関の事故としては歴史的な大惨事となった。犠牲者の多くは1両目か2両目の乗客で、多くは脱線衝突の衝撃で車体が圧壊し押し潰されたことによる頭部や胸腹腔内損傷、胸腹部圧迫による窒息死(圧死)、頚椎損傷、骨盤骨折による失血死やクラッシュ症候群(クラッシュシンドローム)などであった。同じ車両から救出された生存者であってもクラッシュ症候群により四肢切断など後遺障害を伴う重傷者が複数人確認されている。

JR発足後の死者数としては1991年(平成3年)の信楽高原鐵道列車衝突事故(死者42名)を上回る史上最悪となる死傷者を出した。国内の鉄道事故全般で見ても戦後(国鉄時代含む)では桜木町事故(106名)を上回り、八高線の列車脱線転覆事故(184名)、鶴見事故(161名)、三河島事故(160名)に続いて4番目、戦前・戦中に遡っても7番目となる甚大な被害を出した。

また犠牲者の遺族・友人、負傷しなかった乗客、事故列車が激突したマンションの住人、救助作業に参加した周辺住民や救急隊員など広範囲でPTSDを発症するなど大きな影響を及ぼした。

なお、マンションには47世帯が居住していたが、倒壊の恐れに備えてJR西日本が用意したホテルなどへ避難した。事故後も2世帯が残っていたが、8月上旬までに順次マンションを離れたため空家状態となった。その後、マンションは取り壊され、遺構の一部を取り込んだ慰霊施設「祈りの杜 福知山線列車事故現場」として整備され、2018年9月21日から一般公開されている。

物的損害の全貌は詳らかではないが、駐車場にあって巻き込まれた多数の自動車がスクラップ同然の状態となった。

救助活動

阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)の経験が生かされ、迅速な救助活動が行われた。事故発生直後、いち早く現場へ駆けつけて救助を始めたのは近隣住民である。死傷者があまりにも多く、救急車のみでは搬送が追いつかなかったため、歩行可能な負傷者および軽傷者は警察のパトカーや近隣住民の自家用車などで病院に搬送された。また、多数の負傷者を一度に搬送するため、大型トラックの荷台に乗せて病院へ搬送する手段が取られた。通常、座席を持たないトラックの荷台に人を乗せて公道を走ると道路交通法違反であるが、兵庫県警は一刻を争う緊急事態であることに鑑み、白バイおよび機動パトロール隊(パトロールカー)の先導を条件に特例で許可した。これらの結果、負傷者の半数は近隣の人々が医療機関に搬送しており、震災当時にみられたボランティアの精神が生かされている。後に救助・救援活動の功績を讃えて、同年7月に76企業・団体と1個人に対して国から感謝状が、8月には48企業・団体と34個人に対して兵庫県警から感謝状が、9月には32企業・団体と30個人に対して尼崎市から感謝状がそれぞれ贈呈された。また、11月には日本スピンドル製造と1個人に対して紅綬褒章が授与された。

一方、当該列車にJR西日本の社員2名が乗車していたことも判明している。この社員らが職場に連絡をしたところ、上司から出勤命令が出たため、この社員は救助活動をせずに出勤したことが判明。救助より出勤を優先させるJR西日本の人命軽視体質として大々的に報道された。この報道は世論を巻き込み、広く批判の対象となった。

公的機関としては尼崎市消防局は県内消防本部の特別救助隊・救急隊に応援を要請(広域消防相互応援協定を含む)。兵庫県は緊急消防援助隊の応援要請、兵庫県警は広域緊急援助隊の出動要請をそれぞれ行った。さらに兵庫県は陸上自衛隊第3師団への災害派遣要請を行うも、同部隊の保有する救助資機材では引火の危険性があり使用できなかったため、同日17時には撤収した。現場はガソリンが流出しており引火の危険性が高く、その特殊性から救助活動は主に消防の特別救助隊が行い、警察やJR関係者、陸自(同日中に引き上げ)については搬送支援を行った。消防機関としては管轄の尼崎市消防局、県内の消防応援隊、緊急消防援助隊として大阪府の大阪市消防局・堺市消防局・枚方寝屋川消防組合、京都市消防局、岡山市消防局から特別救助隊や救急隊、航空隊等が293隊1095名が出動し、約240名を救出した。また、災害派遣医療チームが事故現場周辺に展開して大量の負傷者が発生した場合のトリアージを実施している。事故から約2時間後には、尼崎市により事故現場至近の大成中学校が開放されて避難所として利用されたほか、緊急車両の待機場や消防防災ヘリコプターの臨時ヘリポートとして活用された。

広域消防相互応援協定により、複数自治体から応援があった一方で、負傷者の搬送先はそのほとんどが兵庫県下の病院となった。尼崎市と隣接する大阪府への搬送は転院が中心であり、直接の搬送は数件にとどまった。また、重傷者は神戸市消防局航空機動隊と兵庫県防災航空隊、大阪市消防航空隊の消防防災ヘリコプターによる搬送も行われた。


原因


兵庫県警察および航空・鉄道事故調査委員会による事故原因の解明が進められ、2007年(平成19年)6月28日に最終報告書が発表された。

航空・鉄道事故調査委員会の認定した脱線の原因については「脱線した列車がブレーキをかける操作の遅れにより、半径304mの右カーブに時速約116kmで進入し、1両目が外へ転倒するように脱線し、続いて後続車両も脱線した」という典型的な単純転覆脱線と結論付けた。現在では現場のATSには速度照査機能が追加されたが、2005年(平成17年)6月 - 2010年(平成22年)10月までに速度超過で列車が緊急停止する事態が11件も起こっており、速度が出やすい魔のカーブとされている。

なお、この脱線事故の原因の究明および以後の事故防止のために調査を行う航空・鉄道事故調査委員会が調査を行った。同委員会は2008年(平成20年)10月1日に運輸安全委員会へ改組されているが、本項では組織名を航空・鉄道事故調査委員会のまま記述する。

列車速度超過説 (事故報告書、通説)

航空・鉄道事故調査委員会の鉄道事故調査報告書によると、当日、事故現場に至る以前から、JR東西線(京橋 - 尼崎駅の正式名称)にてATS-P曲線速照機能が動作したり、分岐器制限速度を超過したり、ATS-SWの確認扱いを怠って非常ブレーキを動作させたりするなど、通常の運転ではあまり見られない操作を繰り返していた事が記録より判明している。

4月30日、広島県福山市の自販機
  • 京橋駅→尼崎駅:下り(各停)第4469M列車(JR東西線を尼崎駅まで運行)
  • 加島駅直前のR=250曲線の手前約99mにて、ATS-Pによる常用最大ブレーキが1.8秒間作動。曲線制限速度いっぱいの65km/hで曲線に入る。
  • 尼崎駅→宝塚駅:下り回送電第回4469M列車(事故時と反対方向への回送列車)
  • 川西池田駅 - 中山寺駅間で、閉塞信号機が進行にもかかわらず不自然に惰行し、10km/h程度まで速度低下。
  • 宝塚駅手前で場内信号機の停止現示を受けて手前で徐行していた後、注意現示に変わると力行開始。現示制限速度の55km/hを超えても力行カットせず、さらに分岐器にその速度制限40km/hを超えた約65km/hで進入、ATS-SWロング地上子(出発か)を踏んでATSベル鳴動するも確認扱いを行わず、非常ブレーキ作動し、進入ホームの手前端部付近で停止。ATS復帰扱いをし再起動するが指令に報告せず(報告義務あり)。
  • さらに同駅構内で、ATS-SW誤出発防止地上子を踏んで再び非常ブレーキ作動し停止。この時、列車が場内に進入してから規定時間(44秒)を超えていた事から、誤出発防止地上子は即時停止情報を送出していた。なお、誤出発防止地上子により停止した場合は、指令への報告義務はない。
  • 宝塚駅から折り返すため反対方向の運転室に移動するが、平均的運転士ではマスコンキーを抜いてから1分程度で運転室を出るものの、2分50秒ほど掛かった。
  • ここまでいずれもダイヤ上の遅延は1分未満であり、大きく遅れているわけではなかった。
  • 宝塚駅→京橋駅:上り快速電第5418M列車(事故列車)
  • 北伊丹駅通過後、伊丹駅停止位置手前643mで約113km/hにて惰行時、ATS-Pの次駅停車予告アナウンスがあるもブレーキを掛けず、手前468mで約112km/hの時、Pの停車警報が鳴り、ブレーキをB7-8に入れる。停止位置で止まりきれずに44mオーバーランした時に車掌が車掌弁を引き非常ブレーキにより停止、72mのオーバーラン。なお、運転士は直通予備ブレーキも動作させていた[注 5]。その後後退させて駅に停車。
  • 伊丹駅を1分20秒延で出発後、車両及び線区最高速度の120km/h±数km/hいっぱいで力行を続ける。塚口駅上り場内信号機手前で力行カットし、その後は微ブレーキを短時間操作したがほぼそのままの速度で惰行。事故現場のR=300右曲線(70km/h制限)に116km/hで進入、脱線転覆した。
  • なお、北伊丹駅辺りから事故現場の曲線まで、概ね線形は一直線状であり、最高速度で走行していても事故現場の曲線の手前までは線形速度制限により減速する機会はほぼない。

また、始発の宝塚駅やその次の停車駅である川西池田駅に入線する際にも、それぞれ停止位置を間違えるなど、不自然な運転を繰り返していたことも判明している。運転士がその遅れを取り戻そうと制限速度を超えた可能性、また、単純に焦りと動揺などからブレーキ開始位置を失念し掛けるのが遅れた可能性もある。さらに、事故報告書p.17 - 18によると、オーバーランした伊丹駅を発車後、最高速度いっぱいで力行・惰行の最中に運転士から車掌に車内電話があり、伊丹駅でのオーバーラン報告について「まけてくれへんか」と交渉されたと言い、この事に気を取られ過ぎて、ブレーキ位置を失念した可能性もある(運転士がブレーキを掛けなければ、そのままの高速度で70km/h制限の曲線に進入する事となる)。

なお当該線区に設置されていた自動列車停止装置(ATS-SW)はJR西日本では最も古いタイプのものとされ、あたかもこれが事故を防げなかった原因であるかのような報道もあった。ATS-SWでも速度照査用の地上子などの設備を設置すれば速度照査機能の付加は可能であり、ATS-SWそのものが直ちに事故原因につながるわけではない。ちなみに事故現場には速度照査用の地上設備は設置されていなかった。

また、当該線区には新型のATSである自動列車停止装置(ATS-P)の導入が予定されていたが、ATS-Pでも速度照査用の地上設備が設置されていないと、速度超過した列車を自動で減速あるいは停止させることはできないのは、ATS-SWと同様である。

速度超過から脱線に至る原因は、せり上がり脱線説と横転脱線説の大きく2つの説があるが、レールの傷跡から後者と断定される。

事故報告書における乗客の供述

  • 最後尾車両に乗っていた乗客によると「本件列車はいつも乗っている快速というよりも、新快速に乗っているように速く、また揺れたという記憶がある」との供述がある。

当初疑われた原因

事故発生当初は、下記のように種々の原因が疑われた。しかし、最終報告書ではそのほとんどについてそれを裏付ける傍証は明示されなかった。

非常ブレーキ説

カーブ通過中に運転士が非常ブレーキをかけて車輪が滑走した場合、車輪フランジの機能が低下して脱線に至る可能性が大きいという説があり、当初、非常ブレーキを動作させなければ脱線および横転の可能性は少なかったと言われた。後の解析の結果、運転士はカーブ進入後、車体が傾きだしていたのにもかかわらず常用ブレーキを使用していたことが判明。非常ブレーキは脱線・衝突の衝撃で連結器が破損したことによって作動していた。

また、それ以前に運転士が数回にわたって非常ブレーキをかけていた原因については、0番台の車両と1000番台の車両のブレーキのかかり方の違いによるものであるという見方もある。0番台と1000番台ではブレーキの動作が違っているため、207系の運転経験がある運転士は(他形式とは違い)20mほど手前から転がして微調整をかけるような運転の仕方が必要と話す。

せり上がり脱線説

運転士がカーブ手前でそれに気づき非常ブレーキをかけたために(後に否定される)車輪のフランジとレールとの間で非常に強い摩擦力が起き、2000年(平成12年)3月8日に発生した「日比谷線事故」と同じような車輪がせり上がって脱線した「せり上がり脱線」が起こり、事故につながったという見方もある。しかし、通常のせり上がり脱線が発生するためには車輪に非常に高い横圧がかかることが必要で、現場の半径300mのカーブ程度では通常は考えにくい。

横転脱線説

また、あるところではせり上がり脱線ではなく上記に示したとおり「非常ブレーキ」の作動によって列車のバランスが崩れ、進行方向(尼崎方面)向かって右側の車輪が浮き上がりそのまま左側に倒れ込んだ「横転脱線」ではないかとする見方もある。しかし、前述のとおり、乗務員が使用したのは「常用ブレーキ」であり、「非常ブレーキ」が作動したのは脱線によって連結器が破損した後であると判明している。

乗用車衝突説

事故発生当初は、現場に大破した乗用車が存在することと列車の脱線の事実のみが伝わったことから、「踏切内で乗用車と列車が衝突し、列車が脱線した」との憶測が飛び交うなど情報が錯綜した。そしてJR西日本の当初発表が「踏切内での乗用車との衝突事故」だったため、報道各社はこのJR西日本発表を流した。発生2時間後の警察発表後で否定されるまで、乗用車との衝突とする報道は続いた。

塚口駅から同列車が脱線した地点までの区間に踏切は1つも存在せず、乗用車が近隣の建造物や立体駐車スペースから線路内へと落下した痕跡も確認されなかったことから、この説は明確に否定される。

線路置石説

JR西日本は事故発生から約6時間後の25日15時の記者会見の中で粉砕痕(置石を踏んだ跡)の写真を報道機関に示すなどして、置石による事故であることを示唆した。しかしJR西日本の置石説発表後に国土交通省が調査が済んでいない段階での置石であるとの断定を否定する発言を行い、JR西日本も原因が置石であるかのような断定を撤回する発言を行った。

その後も調査が進み、事故列車の直前に大阪方面へ向かう北近畿6号が通過するなど列車の往来が激しい区間であることから、多数の置石をするのが困難であること、置石の目撃者がいないこと、当初置石があった証拠として挙げられたレール上の粉砕痕は、航空・鉄道事故調査委員会の調査結果でその成分が現場のバラスト(敷石)と一致し、「脱線車両が巻き上げたバラストを、後部車両が踏んでできたものと考えるのが自然である」との調査委員会の見解が出された。

また、事故後しばらく、模倣とみられる置石事件で逮捕される者が相次いだ。

油圧ダンパー(ヨーダンパー)故障説

複数の乗客から「油くさい臭いがした」「異常な揺れを感じた」との証言があり、事故発生直前に車掌からも輸送指令に「(揺れがひどく)列車が脱線しそうだ」と無線連絡していたことから、新幹線などの高速車両にも搭載されている横揺れを抑える「油圧ダンパー(ヨーダンパー)」が故障していたのではないかとの説がある。

油圧ダンパーの故障で空気バネをうまく制御できなかったことにより、直線区間で異常な揺れが発生し(油圧ダンパーや空気バネが正常であれば高速走行をしても極端な揺れなどは感じない)カーブに入った時に「空気バネの跳ね返り現象」(油圧ダンパーが故障していたことにより、カーブ突入時に本来内側に傾いたままであるはずの車体がバネの跳ね返りで外側に傾いてしまう現象)が起こり、車体全体が外側に傾いていた時に、たまたま運転士の焦りから通常減速すべきカーブを減速しないで加わった強力な横の重力もあって転覆に至ったのではないかとされている。

油圧ダンパーが故障したとすると、空気バネの制御ができなくなるのと関連してブレーキの制動具合にかなりの影響を与えるという意見がある。つまり、乗客が多い場合と少ない場合で同じ位置に停止させようとすると異なるブレーキ力を働かせなければならないので、その調整を空気バネの制御で行っているのである。今回の事故において、空気バネの制御ができなくなっていたとするとブレーキの作動が非常に悪くなっていた可能性があることが専門家から指摘されている。

ただし、本来油圧ダンパーと空気バネは独立したものであり、207系自体、また類似構造の台車を履く221系も当初ヨーダンパーを装備していなかったことから、ブレーキの効き具合にも直接の影響はないとする意見もある。

事故の間接的要因


運休から運転再開へ

この事故により福知山線の尼崎駅 - 宝塚駅間で運転が休止された。また、同線を経由して運行されている特急「北近畿」「文殊」「タンゴエクスプローラー」も福知山駅以北の区間のみの運行となった。なお運休による減収は1日約3,000万円が見込まれていた。

復旧工事は同年5月31日から開始され、その後、同年6月7日から試運転を開始した。2006年(平成18年)3月までの暫定的な運行ダイヤを提出し、同年6月19日午前5時、55日ぶりの全線運転再開となった。

振替輸送

福知山線の運転休止期間中、福知山線沿線である兵庫県各市(三田市、宝塚市、川西市、伊丹市)周辺と阪神間を結ぶ経路において、振替輸送が実施された。事故後、福知山線利用者の多くは競合している阪急の振替輸送を利用し、事故から約1か月後の5月23日には阪急ホールディングス(現在の阪急阪神ホールディングス)が1日平均で約12万人の乗客を振替輸送していることを発表した。

仮に並行私鉄である阪急宝塚線急行または、阪急神戸線特急と、西宮北口駅で阪急今津線を乗り継ぐ利用する方法で大阪(梅田)と宝塚の間を移動する場合、所要時間そのものは福知山線の快速を利用した場合に比べて約10分多く要する程度であるが、これに乗車駅や降車駅での乗り換え・乗り継ぎに要する時間がそれぞれ加わることによって、合計で20 - 30分程度の時間が余分に必要となり、通勤・通学など利用者の大きな障害となった。

また、振替輸送を行った路線では、事故以前からの既存利用者にも列車・路線バスの車内や駅などの混雑という形で影響が及び、ゴールデンウィークが明けた5月9日からは、混雑緩和のため阪神電気鉄道や同線に至る路線などが新たに追加された。

実施区間

  • 阪急電鉄
  • 宝塚本線:梅田駅 - 川西能勢口駅 - 宝塚駅
  • 神戸本線:梅田駅 - 塚口駅 - 西宮北口駅 - 神戸三宮駅
  • 今津線:
  • 宝塚駅 - 西宮北口駅
  • 西宮北口駅 - 今津駅(5月9日より)
  • 伊丹線:伊丹駅 - 塚口駅
  • 阪神電気鉄道
  • 本線:梅田駅 - 尼崎駅 - 今津駅 - 元町駅(5月9日より)
  • 神戸高速鉄道
  • 東西線:
  • 阪急神戸三宮駅 - 高速神戸駅 - 新開地駅
  • 阪神元町駅 - 高速神戸駅(5月9日より)
  • 南北線:新開地駅 - 湊川駅
  • 神戸市営地下鉄・北神急行電鉄
  • 西神・山手線・北神線:三宮駅 - 谷上駅
  • 神戸電鉄
  • 有馬線:湊川駅 - 谷上駅 - 有馬口駅
  • 三田線:有馬口駅 - 横山駅 - 三田駅
  • 公園都市線:横山駅 - ウッディタウン中央駅
  • 阪急バス
  • 尼崎線(56系統):川西バスターミナル - 阪神尼崎(5月9日より)
  • 阪神電鉄バス(2009年4月1日より阪神バス)
  • 尼崎宝塚線:宝塚 - 阪神尼崎(5月9日より)
  • 杭瀬宝塚線:宝塚 - 阪神尼崎駅北(5月9日より)
  • 尼崎市交通局(尼崎市バス、2016年3月20日より阪神バスへ移譲)
  • 11系統・12系統:阪急塚口 - JR尼崎(5月9日より)

不通特約

振替輸送の他にも不通特約の切符を発行する措置もした。不通特約の切符とは、みどりの窓口の駅員が普通の切符に赤いペンで手書きで「不通特約」と書いただけの切符のことで、この切符は福知山線経由と同じ料金で山陰本線などの他の路線経由で目的地まで向かうことができる。主に尼崎駅 - 宝塚駅間をまたぐ長距離の利用客に発行された。発行された例として「東海道線・山陰本線京都駅経由の新大阪 - 福知山」「山陽本線・加古川線谷川駅経由新大阪 - 福知山」がある。

復旧工事

復旧工事は5月30日午前8時から始まる予定だった。しかし、周辺の住民の同意を充分に得ないまま工事が行われようとしたとして一部から抗議が寄せられたため、工事は午前9時頃から中断し、30日の工事は中止になった。30日はJR西日本の担当者が周辺の住民を戸別訪問し、了解を取る作業を続ける。住民の同意が得られたとして工事が31日午後1時から始まり、6月3日に終わった。そして、住民への戸別訪問による工事終了の説明をして完了した。

試験運転

6月7日以降に行われた。7日には網干総合車両所の221系と201系による走行試験、8日には同所の207系によるATS-Pの作動試験が行われた。

運転再開

6月19日に尼崎駅 - 宝塚駅間で運転が再開された。ダイヤは事故前から大きく変更されて朝ラッシュ時間帯の快速の所要時間はおよそ1分30秒伸ばされ20分になった。

当面の間、宝塚駅 - 尼崎駅間の最高速度は120km/hから95km/hに、事故のあったカーブの制限速度は70km/hから60km/hにそれぞれ引き下げられ、実際の列車走行時にはさらにそれより低い速度で運転されることも珍しくない。

尼崎駅 - 新三田駅間に拠点P方式のATS-Pが導入され、6月19日から運用を開始する。従来のATS-SWも存置されているが、速度照査用地上子が設置され、事故現場においてATS-SWでの速度照査も開始された(詳細はJR西日本の速度照査に記載)。

再開翌日の夕方、現場のカーブを通過しようとした特急「北近畿」15号が曲線の照査速度を超過したため緊急停車した。場所が場所、時期が時期なだけに報道陣の目の前での停車となって、皮肉にも速度照査機能が正常に作動したことを証明した形となる。即日のうちに、国交省より注意を受けた。

その後

事故を起こした列車の列車番号である「5418M」は無期限の欠番となり、同時刻を走る列車は「5818M」を名乗るようになった。その後この運転系統の快速列車には5420Mから始まる番号が振られるようになり、ほぼ同時刻を走る列車の列車番号は「5442M」となっている。なお、事故による欠番はこれまで鉄道業界では例がなかったが、航空業界では日本航空123便墜落事故での123便や、日本国外ではユナイテッド航空232便不時着事故での232便の例がある(同じく永久欠番)。

2006年春に行われたダイヤ改正において、同社の路線全体におけるダイヤの余裕時分を増やし(例:新快速列車の三ノ宮駅 - 大阪駅間の所要時間が、現行の19分から20分に)、駅ごとの乗降数に応じて停車時間も10秒 - 1分ほど延長された。それに伴って乗務員が不足する状況への苦肉の策として、同社の路線全体で140本の列車が削減された。

この改正により、山陽本線(JR神戸線)の須磨駅 - 西明石駅間の各駅停車列車を現行の毎時8本から4本に半減させるなど、昼間時の利用率の低い区間の列車が削減されたが、2008年春に行われたダイヤ改正で昼間時の毎時2本がが再び西明石駅発着に戻っている。

事故の後、乗客の一部がJR西日本の安全性、企業の姿勢に不安を感じ阪急宝塚線に流れたが、JR西日本の発表によると9割方の乗客が戻っている。ただし実数は未調査のため不明である。

遺族感情への配慮などのため、その後に登場した321系のラインカラーが、当初予定されていた青2色から、紺・オレンジを基本とする配色に変更された。また、事故列車と同じ207系も同年11月25日から同様に配色変更された車両の営業運転が順次開始され、2006年3月末までに対象車両全477両の配色変更を終わらせた。

地上側では速度照査機能を持ち、曲線区間の手前で充分に減速、あるいは非常停止が行えるATS-Pが、車上側では運転士のマスコン・ブレーキ・警笛・EBリセットスイッチなどの無操作が約60秒続くと5秒間警報が鳴動し、さらに操作がない場合は自動的に非常ブレーキが作動するデッドマン装置の一種である緊急列車停止装置(EB装置)と、列車の異常時に操作することで、防護無線をはじめとする必要な処置を一斉に行う緊急列車防護装置(TE装置)の導入が進んだ。しかしその後、同社がEB装置設置済みの車両について、一時的にしても取り外したままにしていたり、スイッチが切れていたりする状態で、福知山線や片町線、山陰本線、大糸線、湖西線、東海道本線、草津線などで運行していたことが判明している。

事故車両は兵庫県警察に押収され、姫路市に保管されていたが、公判で証拠として使用することがなくなったとして、2011年(平成23年)2月1日付けでJR西日本に返還された。

事故現場マンションと補償問題


JR西日本は電車が激突したマンションを買い取り、慰霊碑を建てることを検討していると発表した。しかし、マンションの住民のうち買い取りを望んでいない住民もいて、住民内でも意見が分かれている。2006年(平成18年)春までに解決する予定とのことだったが、10年が経過しても現場マンションは取り壊されていなかった。そして2016年7月より、マンションの4階までを階段状に残し、衝突跡が残る部分などを慰霊施設として保存する工事が開始された。

JR西日本は2007年(平成19年)10月に現場の線路脇に残る脱線の痕跡の上に砂とコンクリートを敷設して作業用の通路としたが、翌年現場を訪れた遺族がJR西日本に抗議した。同年12月5日に行われたJR西日本の掘り起こし作業により痕跡が残っていることが判明し、JR西日本は翌6日に保存を決めた。

完成した慰霊施設「祈りの杜 福知山線列車事故現場」は2018年9月14〜20日にまず遺族と負傷者を受け入れ、21日から一般公開された。

沿線への影響


運休が2か月近くに及んだため、駅周辺の商店街の利用者が激減し、営業時間の短縮・休業により商店街への売り上げの影響を受けた。福知山線の駅周辺の商店街が経営難に陥り、閉店する恐れがあると懸念されていると報道された。

伊丹駅周辺

この事故で復旧するまでの間、JRと阪急の駅で、客足が大きく変化している。伊丹市の玄関口は阪急伊丹駅だが、かつての震災で全壊したことを機に、客足がJRの伊丹駅に移っていった経緯がある。ところが、事故後にJRが不通になると、阪急伊丹駅の乗降客数は震災前に記録された最多時期を超えて増え、事故前の乗客数 23,000人に対し、事故後は 47,000人と阪急にシフトした。 その結果、駅ビルのおよそ 1,200台収容できる地下駐輪所はすぐに埋まり、自転車放置禁止の場所にまで駐輪する者まで出る始末だったのに比して、JR伊丹駅周辺の約 2,000台収容できる駐輪所はガラガラの状態だった。 JR伊丹駅隣接のダイヤモンドシティ・テラス(現在のイオンモール伊丹)も、JRを利用して訪れる客が約2割ほどと見込まれていたが、事故後は1割ほど減っている。

JR西日本人事への影響


被害があまりにも甚大だったため、経営陣の引責辞任は不可避であると見られていたが、後継人事は難航した。結局、2006年(平成18年)2月1日付で南谷昌二郎会長と垣内剛社長は退任し、事故後就任した山崎正夫副社長が社長に昇格、外部の住友電工から会長として倉内憲孝を迎えることになった。なお、国鉄民営化の立役者としてJR西日本への影響力が強かった井手正敬相談役もその職を辞した。なおその後井手は交通道徳協会などの道徳を説く旧国鉄系団体の役員に就任している。(現在は退任)

2009年(平成21年)7月8日、神戸地方検察庁は当時の安全担当役員だった山崎社長を業務上過失致死傷罪で在宅起訴した。これを受けて山崎社長は辞任し、後任として佐々木隆之副会長が社長に就任することとなった。

2009年(平成21年)7月23日、JR西日本は山崎前社長の在宅起訴を受け、同社長のほか事故当時の会長であった南谷昌二郎、社長であった垣内剛両顧問のほか、幹部ら29人の処分(報酬減額など)を発表した。会見した真鍋精志副社長は「事故を組織的、構造的課題と認識しており、経営を担ってきた者に重い責任がある」とし、「会社全体の責任としてとらえなければならない」として、歴代の社長のほか事故当時の執行役員、現在の役員も処分の対象に加えたと説明した。

2012年(平成24年)3月8日、JR西日本は事故の列車に乗務していた当時の車掌について、乗客の救護を怠ったことや他の列車に事故発生を知らせなかったことなどを理由に、出勤停止7日間の処分とした。この車掌は事故後、病気を理由に休職していたため処分が見送られており、その後復職したことを受けての処分となった。同社の産業医は、車掌を乗務可能と判断したが、会社が拒否した問題が報じられている。同社では、産業医による安全委員会がほとんど開かれていなかった問題も指摘されている。

JR西日本は関西財界の有力企業であるが、事故直後、南谷昌二郎会長が関西経済連合会副会長を退き、垣内剛社長は関西経済同友会代表幹事の内定を辞退した。その後も10年以上、同社役員は財界で目立った役職に就くのを避け、活動を自粛した。2017年に真鍋精志会長が関経連副会長に就任した際も当初は要請を固辞したとされる。

マスメディア


報道では、事故が起こった路線名の表記が分かれた。朝日新聞、神戸新聞、サンテレビは、東海道本線大阪駅 - 尼崎駅間と福知山線尼崎駅 - 篠山口駅間の愛称である「JR宝塚線」または「尼崎JR脱線事故」を使用しているが、それ以外のマスメディアでは正式名称の「福知山線」を使用している。

在阪テレビ局の社員も通勤中に事故に巻き込まれ、死亡あるいは負傷した者がいた。

番組編成(テレビ)

テレビ各局は事故発生後40分前後から画面上へのテロップによる速報を流し始めた。その後、午前10時前にNHK総合が臨時ニュースを編成したあたりから、通常放送を中止して報道特別番組に切り替える動きが出始め、午前10時30分の時点で、NHKおよび民放各局が放送中の通常番組を打ち切ったり内容を変更して、列車事故に関するニュースを(おおむね午後6時台のワイドニュース終了時まで)報じた。

NHK総合では、事故を起こした電車に乗り合わせていた神戸放送局の小山正人チーフアナウンサーの第一報に基づき、午前9時43分08秒に速報テロップを送出。その後、『生活ほっとモーニング』を中断して、午前9時46分から11時54分まで特設ニュースを放送した。また、正午のニュースの後も、朝の連続テレビ小説『ファイト』の再放送を除き、午後6時15分までJR西日本の記者会見や、専門家の見方なども含めて、特設ニュースを放送した。さらに『NHKニュース7』を午後8時15分(45分延長)まで、『NHKニュース10』を午後11時10分(15分延長)まで延長して、この事故を伝えた。

日本テレビ系の『ザ!情報ツウ』ではNHKでの報道開始とほぼ同じタイミングで事故の一報を報じ、10時前後より事故現場上空のヘリコプター空撮映像を交えて繰り返し報じたり、子画面に中継映像を出したりながら通常放送が行われた。

一部の在阪民放局では午後7時以降も通常番組を中止し、報道特別番組を編成したほか、事故発生翌日以降も関連ニュースを特別番組などとして伝え続けた。

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